チャンプルーズ伝説

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喜納昌吉2009
沖縄から見た日本と地球の未来。
薩摩の琉球侵攻から四〇〇年。

<<〜喜納昌吉インタビュー>>
● 「うるま」の歴史をたどる
● アイヌ、沖縄、昆布ルート
● 沖縄癒しブーム
● 人類の明るい未来のために
● 平和のビジョンを創造する

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日印国交50年平和コンサート(2002/2/4 東京新聞)

「武器溶解しモニュメントを」招待の歌手・喜納昌吉さん発案
依然緊張のインドで、人類融和メッセージ『すべての人の心に花を』

日本とインドの国交五十間年を記念する平和コンサートが十二日、首都ニューデリーで開かれる。招待を受けた沖縄のロック歌手、喜納昌吉さん(53)は、インドとパキスタンの緊張緩和に一役買おうと武器を集めたモニュメントづくりを計画している。

コンサートはインド政府(外務省)の主催、インド文化協会と日印親善協会の共催で行われる。インド文部省などが後援し、日本側も外務省が国際交流基金を通じ支援する。
昨年十二月、パキスタンのテロ組織がインド国会議事堂を襲撃して以来、両国の対立が激化した。カシミール停戦ラインには約八十万人の両軍兵土が集結している。ブレア英首相やパウエル米国務長官らが両国を訪間し直接対話を呼びかけたが、インドは一月二十五日、核弾頭搭載可能な中距離弾道ミサイル「アグニ」の発射実験に踏み切った。依然緊張が続く中での平和コンサート開催になる。
喜納さんは、インドとパキスタンの緊張について「米中枢同時テロ後のアフガニスタン攻撃のあおりを受けている。国際社会は、米国だけでなくインドとパキスタンに対してもテロと報復の繰り返しを止めるよう働きかけるべきだ。印パと中国は核兵器を保有しており南アジアの安定は人類全体の問題」と指摘する。
米国の対テロ戦争だけでなくインドとパキスタン、イスラエルとパレスチナなど世界各地で紛争が絶えない。
「ユダヤ利権に重心を置く米政府では、中東問題一つ解決できない。イスラム教、キリスト教、ユダヤ教など宗教分裂に端を発するテロと報復を阻止するには、違う宗教を束ねた神仏習合の歴史がある日本こそ重要な役割を果たせるのではないか」とみる。

インダス文明の地から発信して

インドはブッダの生誕地であり、絶対平和の思想哲学がある。喜納さんは「インダス文明からすべての宗教が派生したとすれば、インドから人類融和のメツセージを発するのは意味があるとも。コンサートでは「花・すべての人の心に花を」や「ハイサイおじさん」などアジア各国でヒットした曲を披露する。
インドは核兵器廃絶を目標に掲げている。しかし、隣国の中国やバキスタンが核兵器を保有する以上、バジパイ首相は「武カ行使や威嚇から領土と主権を守るため、最小かつ信頼できる核抑止力の維持が必要」と主張する。ジョーシ文部相は喜納さんへの招待状で「民族、宗教問の抗争も相互理解と和合へ進むべきだ。日本とインドの国民が一堂に集まり『すべての人の心に花を』と、インドから平和を呼びかけるのは大変うれしい」と記してきた。
喜納さんは、インド招待を機に世界の紛争当事国に対して武器の提供を申し出る。「米国のインディアンにピースメーカーの物語がある。五部族を百年かけて説得し、武器を集めて穴を掘り埋めた。その上に木を植え、怨念(おんねん)や悲しみを地下水に流して平和になったという伝説だ。ぜひ各国からライフルや銃などの武器をもらい、溶解して平和の木のモニュメントをつくりたい。枝の先に楽器の実をつけるってのはどうかな。一本目は沖縄に設置し、世界中に広げたい」と意気込む。

同じ50周年のパキスタンでも

この構想を実現するため、市民団体「すべての武器を楽器に平和創造地球市民ネットワーク」を設立した。インドヘメンバーが同行し、同国政府に武器提供を依頼する。
喜納さんはこれまでにインドで数回コンサートを開き「ダンシング・ブッダ」と評されるなど、インド人にも人気がある。「子供のようにハチャメチャな音楽がうけるのかな」と笑う喜納さんは「できれば次は、同じ国交五十周年のパキスタンでもコンサートを開きたい」と言う。

喜納昌吉

エイサー 現代に伝わり定着 喜納昌吉が普及活動(2002/1/15 沖縄タイムス)

沖永良部島の芸能と沖縄アイデンティティーを探して

エイサー
現代に伝わり定着
喜納昌吉が普及活動

沖永良部島は、近世にはグムチ踊り、近代では沖縄芝居と、さまざまな沖縄芸能の影響を受けてきた。現在、影響をおよぼしているものにエイサーが挙げられる。一九九三年三月以降、パフォーマンス型のエイサーが島内に急速に広まり、今では「えらぶ世の主うるまエイサー」「知名町エイサー愛好会」「沖永良部高校エイサー隊」「琉球国祭り太鼓沖永良部支部」の4団体が活動している。
沖縄本島中部で盛んだったエイサーが、奄美諸島の沖永良部島で踊られるようになったのは、エイサーを奄美諸島に広めたいと考えていた沖縄出身のミュージシャン喜納昌吉と和泊町商工会の宗善弘の出会いに始まった。喜納は以前から「奄美と沖縄は一つである」という考えをもっており、奄美諸島でともに活動するエイサーチームを必要としていた。一方、沖縄在住の経験がある宗は、エイサーの魅力を知っていて、沖永良部でのエイサーの実現を願っていた。

九一年、喜納は「琉球の詩in奄美」と冠うった奄美各諸島での公演を企画。和泊町商工会青年部が打診を受け、第十一回フリージアフェスティバルの中でコンサートが実現した。コンサート終了後の慰労会で、喜納は青年部OBとして会に参加していた宗を知る。
二年後の同じフェスティバルで、喜納が伴った与論のユンタエイサーを見て先を越されたと思った宗たちは、沖永良部島にもエイサーをと立ち上がった。その後まもなく喜納のグループが沖縄から沖永良部にエイサーに使用する太鼓を携えて踊りを教えにきた。宗たちの呼びかけで、エイサーに興味を持つ和泊町の有志が集まり、その年の五月一日の「百合祭り」のパレードでデビューがきまり、「えらぶ世の主うるまエイサー」が誕生した。同じ年の九月、沖永良部高校の体育祭のマスゲームで、体育教師が和太鼓グループに属していた宗に太鼓の伴奏を依頼。島で唯一の高校でエイサーを教えることは全島への波及効果が高いと考えた宗は、体育祭のマスゲームでエイサーを行うことを強く薦めた。体育祭で演じられたエイサーは生徒や教師、父母に好評で、体育の選択の授業で教えられるようにまでなっている。九八年からは生徒の希望者による「沖永良部高校エイサー隊」もできた。知名町でエイサーを広めた琉球舞踊の師匠である西伊登子も喜納が派遣したメンバーにエイサーを教わっている。
これらの団体は現在も活発な活動を行っており、夏祭りや敬老会をはじめさまざまな機会でエイサーを演じている。喜納がアトランタオリンピックの公式イベントにアジア大陸代表として招かれた際には、「えらぶ世の主うるまエイサー」や沖永良部高校からも多くの者が参加した。

このようにエイサーは、沖永良部の人々に好まれ、広く浸透していった。ある四十代の女性は、「初めてエイサーを見たときには鳥肌が立った」という。沖永良部高校のエイサー隊の女生徒たちはなぜエイサーを踊るのかとの問いに、「かっこいいから」「喜ばれるから」と答えている。涙ぐんだ観衆に、「よかったよ」と声をかけられたり、おひねりを手に持たせようとする老人もいたという。エイサーを踊るのは好きだからであろうが、見る側の反応もエイサー人気を支えている。
新しい民俗芸能は地元の人に好まれて定着していく。これまで沖縄の芸能を取り入れてきた沖永良部の人々にとって、エイサーは太鼓を持って勇壮に踊る芸能として新鮮味があり、また同時にどこかなじみのある芸能として受け止められられたのである。沖永良部島にはエイサーが受け入れられる素地が十分にあったのである。

高橋孝代

熟れごろ話しごろ編集局長インタビュー(2001/12/9 沖縄タイムス)

音楽家というより、アーティストと呼んだ方が何となく分かりがいいような喜納昌吉さん。十代にはぐくまれた「ハイサイおじさん」と「花」は、時と国境を超えて歌われる。音楽と平和を結びつけ「すべての武器を楽器に」と呼びかける。

「すべての武器を楽器に」
岸本「ハイサイおじさんは三線の世界だけではない言い知れぬ魅力がある。若者との掛け合いも軽妙で、暮らしのにおいが伝わってくるいい歌。喜納昌吉の才能が発散している。」
喜納「実在のおじさんがいて、その方のすごい個性を一瞬に受け入れて『ハイサイおじさん』ができた。」
岸本「テンポのいい曲ですがそれまでは三線触ったことなかったんですって。」
喜納「ない、ない。不思議だよね。楽器も触ったことのない人が弾けるはずないでしょ。それが、弾けるんだよね。何でかね。」
岸本「花のメロディーも国籍不明の音曲ですね…。」
喜納「よく聴くと音階と和音階がミックスしてるよね。『馬車小すんちゃー』なんか、中央のオーケストラの方から、褒められたことがあるんですよ。『名曲ですよ。今の日本人こういう作り方できなくなっているんですよ』とね。」
岸本「具体的に、どんな作り方なんですか。」
喜納「結局みんなクラシックを勉強しているうちに自分らの五音階を忘れてしまった。音楽を進化させる一方で心の音階を作れなくなった。だから、私の中に原形を発見することがあると言っていますね。
なぜそれができるかということを振り返ってみると、復帰運動と関係があると思う。大和文化を受け入れていくと、必ずそれが、沖縄の内側に流されていきますでしょう。それを最初に音的にキャッチしたのは僕だったんだと思いますね。言い方変だけどね。」
岸本「そういう表現が喜納さんらしい。失礼ですが一回聞いただけでは分からない。文字にして何回も読まないと。」
喜納「そう、歴史が私を訪ねてきたということね。文字も政治も音も入ってくるわけでしょう。音の文化が私を訪ねてきたような感じがしますね。そこで沖縄音階と融合する。それが、見事に結集したのが『花』なですよ。」
岸本「意識してそうなるわけではないですよね。」
喜納「花は今度は、西洋圏で爆発すると思う。テロ報復が逆に『受け入れる』環境をつくっている。」
岸本「映画『ひめゆりの塔』で使われた『花』は、観客の重苦しい気持ちをパッと取り除いてくれた。花の持つ力なんでしょうね。」
喜納「ハイサイおじさんもよく考えてみると、復帰で沖縄の心が、さまよっているときに音楽にしてしまった体質がある。ワーッと明るくしてしまうというね。花も、復帰はしたけれど、後一つ、居場所がつかみきれないという状況を歌っていますよね。」
岸本「二つの曲が生まれたときの、共通点がありますね。『メロディーが降ってわいた』という。」
喜納「あるねー。わいてくるというものがね。自分が作っているという感じがないわけよ。
不思議よー。僕が『ハイサイおじさん』と言うでしょ。そしたら上から『ありあり、わらばー、いぇーわらばー』とメロディーが降りてくるんですよ。考えられない。花は下からわいてきた。いまだに不思議。だから、きれいに説明できない。
二つとも、作りものじゃないから生命力が強いんです。降ってわいたから。」
岸本「若いころの過ちも影響したんでしょうが、喜納昌吉が孤立させられた?時期の恨み節みたいなものをよく耳にするんですが。」
喜納「『世界的な音楽(花)ができた』と、マスコミに持っていって、無視されたときはショックだった。曲も流れず…。『喜納の音楽は品がない』と文化の中で排除する流れがあったことは確か。
最近の状況でいえば『基地がないと沖縄の経済が成り立たない』といって稲嶺さんを知事に選んだでしょう。今度はテロで『基地があるから成り立たない』と。これでは『沖縄はどぅーかってぃー(自分勝手)』になってしまう。」
岸本「閉塞(へいそく)状況ということですかね。」
喜納「沖縄の歴史性が私のようなタイプを封印せざるを得ない状況に追い込んだとね。いまでは、『犯人は故人ではなかった』と達観してしまう。」
岸本「そこから這い上がって世間に認知されライブハウスのビルのオーナーにまでなった。」
喜納「『テロ・報復』で沖縄の観光が危ないのに、うちは盛況。人工的な光が消えて私の所が輝いて見えるんじゃないですか。」
岸本「『すべての武器を楽器に』という標語は喜納さんの平和希求を良く表現している。」
喜納「基地を国連に貸す運動と、非武装、武器狩りの哲学を持ちながら国連機関やNGOを誘致する。地球規模での発想をわれわれは提唱できる。平和というエッセンスを入れると沖縄の伝統文化もさらに輝く。」
岸本「まだ世論になりきっていない。その努力も必要です。最後に、美しく輝く女性の話をしましょう。『刺激を受けている女性は輝く』という持論ですが。」
喜納「社会のいろんな人たちとかかわって、刺激を受けている女性は輝いているわけね。男はそこにひかれる。けれども、独占したいがために外との接触を絶つと、女性の輝きはだんだん色あせてしまう。
沖縄も同じですよね。いろんな刺激を受けながら、堂々と国や世界とわたりあっているから輝いているんです。」

インタビュアー:岸本正男(沖縄タイムス編集局長)

喜納昌吉インタビュー(2001/12/7 MORGEN モルゲン)

シリーズ青春のころ喜納昌吉さん(音楽家)

地球が人類の聖地なんです
それは皆わかっているはず

アメリカの施政権下で生まれ育ったことで、
沖縄の伝統文化が失われていくことは
子供ながらに感じていましたか。

それはありますよね。沖縄というものははっきりいって植民地でしょう。日本の人質の植民地。沖縄を植民地にさせることによって日本が安全を保っている。私はそういうことだと思っているけど、そうなると沖縄の人も支配側についた方が生活はしやすいしいろんな特典も出てくる。だから、どうしても文化もジャズが栄えたり西洋的なものが栄えてくる。その中で沖縄的なものがいつも報われないという構図があったよね。
それは実際、今でもそういう構図はあって、ロックフェスティバルには予算が出るけど、沖縄民謡や沖縄芝居のようなものには予算が出ない。我々がいくらすばらしい沖縄音楽をやっても、マスコミにもこぞって応援しようという態度はない。それがロックになるとわーっと行くのに。不思議だよね。植民地によって侵されてしまった文化、思想、哲学、すべてそうですよ。ただしかし、我々はそれを怨念で克服するのではなく、創造性で克服しようという気持ちがある。相手は武器を持って文化を持ち込んできた。我々が武器を持たずにそれを昇華するパワーを持てるかにかかっているんです。私が、すべての武器を楽器に、すべての人の心に花を、すべての基地に花園に、戦争よりも祭りをといっているのはそこにゆえんがあるんです。

『ハイサイおじさん』を作ったのが高校時代、
そのしばらく後に『花』を作るわけですが、
『花』にこめたような思いというのは十代からあったのですか。

そうですね。それはやはり祖国復帰運動が何かを気づかせてしまったんですね。復帰運動では異民族支配のことがいわれ、反差別、平和が唱えられた。しかし、沖縄にはアメリカ人と混血したアメレジアンといわれる人がいるでしょう。そのハーフの人に関して非常に差別があった。私の姉にもいるから、偽善的な反差別運動を見てきているわけですよ。革新運動も実際は沖縄文化を差別している。進歩的文化とか差別をするなといいながら沖縄的な文化を無視してきた。

あの頃には沖縄独立運動というのもありましたね。

基本的には二種類あった。一つは琉球王朝というかつての幻想を持ちながら独立運動をする者、もう一つは革新系の人達が思想的遊びで独立を唱えていた。この二つが弊害となって独立運動をわかりにくくしてしまったんですね。ただ、私は独立というのは国を持つことではないと思うんです。独立は今後問われなければいけない問題ですけど、本当の独立というのはまず独りで立ち、沖縄本来の力を見直して視野を広げることだと思う。逆に国境主義というのは長い歴史から見ればつい最近の概念だし、これを打破して行く運動がいいと思う。人類を独立させないといけないんですよ。

視野が広がれば国境はおのずとほどけていくということですね。

そう、だから人口爆発の問題も、国境がなくなれば解決できるはずですよ。ネズミでも箱に閉じ込められるとすることがないからせっせと子供を作って増殖する。人類も国境に囲まれた箱の中に入れられちゃったわけで、これを開放すれば、人間は世界的な視野を持ち、行動力を持つから、性に対してもっと意義を見出すはずなんです。そうすれば自然にバランスよく子供を何人持つべきかがわかる。性に対して知性が入ってくるわけです。
沖縄民謡をベースに音楽活動を始めたのに
父上の影響はありましたか。

もともと私はそれをある意味では非常に依存的に持っていましたからね。ただ、私の音楽はやはり突然変異なんです。普通、突然変異というのは種の中で淘汰されますよね。突然変異が生き残るというのはそうない。それなのに私が生き延びられたのは激動の最中だったからなんです。もし沖縄という閉じられた国に生まれていたら、私はつぶされていましたよ。
復帰を迎える。その復帰も、戦争に負けて明治維新とはまったくちがった文明開化をせざるをえなかった。そういう時代だったからこそ生き延びられたんです。だから、自分の作品に沖縄の音楽を吸収していく環境ができあがっていた。本来、私のタイプは伝統世界、保守的な社会からはつぶされるんです。社会がボーダレスに向かっているから私は生きられている。変ないい方ですけど、不完全なグローバリズムが私を救ったと思うんです。アメリカという傲慢な国があったからこそ私は生きられたかもしれないね。

沖縄の古来の神信仰、アイヌの神、
ネイティブアメリカンのホピの神、
そういう神への思いは自然に生まれてきたのですか。

やはり目覚めるんだよね。自分の音楽が出来上がる。そうなると父が伝統音楽をしていて、そのよいところや苦労を見てきているから、親孝行というか、伝統音楽の孝行をしたくなる。そうすると伝統文化の根っこを探求せざるをえなくなるわけですね。それでだんだん神までいってしまう。そこからさらに普遍的シャーマンの世界を見るようになる。そういう世界で共通する少数民族を見ていくと、そこに非常に広大な魂を見てしまうわけです。その魂の海の文化に目を向けると天まで花が咲くんじゃないかと思ってしまう。そして民族音楽が整理されてくる。クラシックも本当は白人の民族音楽から出てきている可能性を見るわけです。
そうなると今度は人間の棲み方の問題に目がいく。凄む時には感謝を持って凄んだ方がいいでしょう。少数民族は何か食べる時でも感謝を持って棲みますよね。感謝を持って棲まない連中が侵略的な文化にしてしまっているわけです。だから、私はそれも思い出させようと思っているんです。あらゆる宗教は、基本的にはシャーマニズムから発達していっている。最初は感謝があったはずなのに、感謝のない人達がのさばるようになっていったんですよ。そこに今の原理宗教の爆発もあるし、支配宗教の問題もある。もう一度根っこを深くすれば理解しあえますよ。調和の花が咲くはずですよ。本当にそこまでものごとを掘り下げていけば調和の花は咲くはずなんです。だから、私はずっと音楽でそれをやり続けているわけです。

ライブでアップテンポな曲になると
一緒に踊ってくださいと呼びかけていましたね。
一緒に踊れば切れることもないと。

東洋の文化にははずれる文化がある。西洋は切れちゃうわけですよ。なぜ切れるかといえば、大地から切れているからなんです。西洋の文化は切ったところから始まっていますからね。我々の文化ははずれるところから始まっている。これは大事なポイントだと思うんです。だから、私は天と地がまじわるのを祭るんです。そして、大地に根をおきなさいというんです。神が来るのを準備しなさいというんです。大地に根を張れば、神は天からおのずと降りてくるんです。アースがつけば雷も降りて来るでしょう。それと同じですよ。地球こそ人類の聖地なんですから。

名作の舞台・喜納昌吉の「花」 東京都渋谷公園通り(2001/10/17 琉球新報)

天啓のようにわく
東京五輪閉会式で"萌芽"

東京・渋谷の公園通り。渋谷駅から西武デパート、パルコを経てNHKへ向かう坂道。雨で舗道は濡れていた。行き交う女性たちは皆、傘をさしている。日本で一番おしゃれな女性たちが集中している通りで有名だ。
坂の上に東武ホテルがあり、そこのレストランからの通りを眺められる。一九七八年秋、三十歳の喜納昌吉が、天啓のようにわいてきた「すべての人の心に花を」のフレーズを紙ナプキンに書き留めた場所である。

海外では最初にタイでヒット
「花」は海外では最初にタイでヒットした。チャンプルーズのセカンドアルバム「BLOOD LINE」を聞いたタイの「カラワン」バンドのリーダー、スラチャイが来沖して、昌吉と意気投合。八五年にタイ語に訳された「花」の入ったカラワンのアルバムを発表した。それがきっかけとなり、タイのアイドル歌手が相次いでカバー。八七年には、マリ・バンドというグループが八週連続ヒットチャートを独占する。
その後、コンサートで競演した台湾のトップアーティスト周華健(エミール・チョウ)が「花」に感激し、昌吉に申し入れ、レコード化する。九〇年代前半には北京語で「花心」と訳され、九三年には中国で大ヒット。ゴビ砂漠の奥までアジアを一周する勢いで広がっていった。
「花」のアジア最大のヒットについて昌吉は「二年前の読売新聞の調べで世界六十カ国で三千万枚売れたとあった。不思議なことに印税という概念のない国を選ぶようにヒットしているので経済的恩恵にはあずからなかった」と笑う。
「日本の扉を開けた喜納」
「泣いています」「笑っています」…。
昌吉の目はテレビにくぎ付けだった。
一九六四年東京オリンピック。学校帰りの食堂のテレビで高校一年生の昌吉が目にしていたのは、閉会式の場面。白人も黒人もアジア人も、すべての民族が一つに集う場面だった。
「花」の一節、「泣きなさい、笑いなさい」の歌詞は東京オリンピック閉会式の模様が深く心に刻まれ、一四年後に突然わき起こってきた歌詞だった。
七七年、「ハイサイおじさん」でヒットを飛ばし、県外マスコミの注目を浴びた昌吉は東京で住民運動や平和運動にもかかわるようになる。昌吉の目に映ったのは、平和を願い、戦争に反対している人たち同士の対立だった。
渋谷の公園通りのホテルのレストランで、フレーズがわいてきたのはそんな時だったという。
「本当にどこからか降りてきた気がする」
八一年に取材の際、沖縄市の自宅で、「花」のレコードを聴かされた。その時「歌詞が日本語として奇妙だ」という印象があった。後に、そのなぞは喜納昌吉年譜を見て解けた。
「学校に通うまでウチナーグチ(沖縄語)しか知らず日本語が理解できなかった。テストで答えを方言で書いて教師たちを困惑させた」とある。
日本語を外国語として習得した人が書いたところに「花」の歌詞の奇抜さがあるのではと思う。
「花を唄う会」をつくった故小池聰行氏(オリコン社長)は、「喜納さんが宇宙のレベルで『泣きなさい笑いなさいと言っているから、誰も反発しない』そのくらい昇華されている」と激賞。「『花』は宇宙の歌」とまで言い切っている。
昌吉自身はミュージシャンとして、坂本龍一などをプロデュースしたミュージシャンのデヴィット・バーンの評価を気に入っている。「喜納はポップスの世界とアジアのサウンド、メロディーを最初にミックスした日本人(喜納は沖縄人と呼ばれるのが好きなようだが)。喜納は二度と閉まることのない日本の扉を開けたのだ」
国際通りのライブハウス「チャクラ」が昌吉のチャンプルーズの本拠地。米同時中枢テロ事件の二、三日後、ライブを聴いた。
昌吉は「ブッシュもビンラディンも心に花はあるか」と問い掛けていた。
十月七日・大阪城野外音楽堂、八日・東京日比谷公園野外音楽堂で開催された「琉球フェスティバル2001」でも昌吉は、テロと報復に反対し、「すべての武器を楽器に」と訴えていた。最後に「心の中に心の中に花を咲かそうよ」と熱唱した。
「『花』が生まれたのは東京オリンピックがきっかけ。第百回記念大会となった九六年アトランタオリンピックの公式イベントに招待されたのも、運命のようなものを感じる」
昌吉の目標は「沖縄オリンピック誘致」。
来年二月の「インド・日本の国交回復五十周年」記念イベントにインド政府から正式招待状が昌吉のもとに届いている。
その時、隣の地上にも「花」は届くだろうか。

金城倫明

「花」をカバーする日本・世界のアーティスト
日本:由紀さおり・安田祥子、ジュディ・オング、都はるみ、森進一、石川さゆり、三輪明宏、松平健、松方弘樹、ペギー葉山、河内屋菊水丸、新井英一、石嶺聡子、新垣勉ら
インドネシア:デティ・クルニア、ワルジーナ
カンボジア:ソッマーチ
タイ:カラワン、マリ・バンド、ダヌポン・ケオカン、スナリー・ラジャシマ
台湾:周華健、許景淳
中国:ショウイ・イーティン
モンゴル:ウヨンタナベトナム:トゥアンダット、イーリン、キムチー
マダガスカル:タリカサミ
米国:A.S.A.P.、スーザン・オズボーン
アルゼンチン:グラシェラ・スサーナ


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