喜納昌吉&チャンプルーズOFFICIAL WEB

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喜納昌吉の軌跡

1991
テスト

テスト

1991/03 (42歳)
琉球の詩 奄美諸島コンサート

現在鹿児島県に属する奄美諸島は、琉球時代までは沖縄とひとつであった。沖縄と奄美諸島は戦後アメリカ占領下におかれ、奄美諸島は一足先に日本復帰し鹿児島県に属するようになった。沖縄も72年に復帰し沖縄県が誕生したが、沖縄と奄美はひとつになることはなく、分割されたまま今に至っている。昌吉は沖縄と奄美はひとつだと、奄美大島、喜界島、徳之島、与論、沖永良部島をまわりコンサートを行った。この時の地元青年たちとの交流が実を結び各地でエイサー隊が結成され、今では小学校の授業にまで取り入れられるようになっている。

1991/09/20 (43歳)
「アーススピリット」発表 (アルバム)

 フランスで収録された「アーススピリット」はその名のままに、大地の叫びとともに古くから歌い継がれてきた沖縄の歌が収録されている。昌吉が21世紀へのカギを握るという先住民は、英語ではインディジニアスと呼ばれ、その意味は「大地とともに生きる」。沖縄もその意味では立派に先住民であり、歌はその精神を運ぶ重要な役割を持っている。昌吉は沖縄の伝統的なエイサー曲・仲順流りをアーススピリットと改題。エイサー隊の打ち鳴らす太鼓は、世界中の人々の鼓動と地球のスピリットを結ぶ役割を果たしてきた。「ドンドン節」は徳之島の民謡だし、「タンチャメー」(谷茶前)は沖縄民謡の代表曲だ。「クバラパーズ・クイチャー」に至っては宮古島の雨ごいの踊りの歌クイチャーが見事に変身してしまっている。喜納昌吉&チャンプルーズとフランス、カリブ、アフリカ出身のミュージシャンたちとの共同作業の中で、沖縄民謡がまったく新しく生まれ変わった。音楽各雑誌でも、沖縄に向けられたものではなく地球に向かって開かれた「新しい島唄」と評されている。
 「ドンドン節」は「さんまのまんま」(フジテレビ系)の主題歌としても使用された。

1991/12/31 (43歳)
NHK紅白歌合戦出演

紅白出場には賛否両論が巻き起こった。沖縄民謡界の人物がNHKの紅白に出場することは前代未聞のことだったので、沖縄の民謡界でも大変な騒ぎになったという。昌吉は悩んだが、フォトジャーナリストの吉田ルイ子の「出てみれば」の一言で決意した。記者会見での昌吉のコメントは、「NHKも、よく私のような扱いにくい人物をよく招いてくれた」というものだった。出場曲は「すべての人の心に花を」。周りの期待通りというか、あるいは意に反してというか、喜納昌吉は曲の間奏に二つのメッセージを入れた。「人類は一つ、地球は一つ、ちゃーあっち(ずっと歩く)」「ONE LOVE」昌吉にとっては当然のことだった。

1992/05/23 (43歳)
「アジア民族交流音楽祭」

沖縄の日本復帰二十周年記念行事「ニライカナイ〜アジア民族交流音楽祭」で昌吉は監修役をつとめた。「音楽を通し近隣アジア諸国の人と人、民族と民族との交流を果たそう」という主旨で開催された。日本からは河内家菊水丸、喜納昌吉&チャンプルーズ、台湾からはエミール・チョウ、韓国はウォン・ミョン、タイからはソン・シット、モンゴルのウヨンタナ、フィリピンからはスモーキー・マウンテンらが参加、ジュディーオングが司会をつとめた。この音楽祭により、後に中国での「花」の空前の大ヒットを生む、素晴らしい出会いが起こった。それが台湾のエミール・チョウと喜納昌吉の出会いだった。

1992
NHK番組のテーマ曲

NHK番組『プライム10 アジア海道』のテーマ音楽に、『流れるままに』が使用される。

1992/08 (44歳)
喜納昌吉8DAYS LIVE

喜納昌吉の44年の半生を綴るトークライブと銘打って、8日間にもわたる「THE8DAYS LIVE」開催。昌吉の歩いてきた道をさまざまなゲストと共に語りながら、客席に問題意識を投げながら、そしてライブでは昌吉の歴史を遡りながら全曲を披露した。8日間のトークゲストは、喜納昌永、平仲明信、保坂展人、木村政昭、宮沢和史など。多彩なジャンルの人々で、環境、人権、戦争、原発、そして音楽、伝統、文化。さまざまな人がさまざまな話を語り合った。ホールに隣接された展示会場では、新聞記事、コンサートのチラシ、写真などのパネル展示とビデオ上映が行われた。

1992/09/30 (44歳)
「IN LOVE」発表(アルバム)

沖縄発の本格的レコーディングスタジオJAVYでの初の作品。1曲目の軽快なテンポと三線の心地よい「ヒヤミカチ節」は、沖縄文化の源流を身を削りながらも探求し広め続けた偉人山内盛彬が作曲し、謝花昇とともに自由民権運動を闘った平良新助が作詩したものである。「ヒヤミカチウキリ」とは奮い立てという意味で、このふたりの思いが音と詩に見事に表現されて、今では沖縄の応援歌の代表として歌われている。このアルバム自体心の底に眠っている何かが奮い立たされるアルバムである。「赤田首里殿内(あかたすんどぅんち)」「謝花昇」など沖縄民謡や沖縄を題材にした歌が大半を占めている。

1993/08 (45歳)
国際先住民年記念「ニライカナイ祭り」開催

 国連の制定した国際先住民年を記念し、第3回「ニライカナイ祭り」を4日間に渡り開催。プレイベントとして、知念村の聖地斎場(せーふぁー)御獄(うたき)から那覇の奥武山の沖宮まで「セイクレッド・ラン(*)」を行い、国際通りをパレードした。若手ミュージシャンを集め環境を考える「セイブ・ザ・マングローブ・コンサート」を行いマングローブを2000本植樹し、「アース・アート・フェスティバル」では沖縄・奄美、世界中の先住民のの伝統芸能が披露された。「世界平和会議」では世界中の先住民・学者・ジャーナリストなどを招き、地球の未来と人類の平和を語り学びあった。
 「アース・ミュージック・フェスティバル」コンサートは台風のために10月に延期されたが、夏に出演予定していたすべてのアーティストが再び沖縄に結集した。喜納昌吉&チャンプルーズのステージには、ソウルフラワーユニオンは「アイヌ・プリ」「サバニ」「騒乱節」に参加。ハイサイおじさんではTHEBOOM、ボ・ガンボス、ZELDA入り乱れての熱演に5000人の観客も熱狂した。
 

1993/12/31 (45歳)
「レインボームーブメント」発表

 昌吉を慕う数多くの日本の若手アーティストが参加した。THEBOOMの宮沢和史が昌吉に贈った「愛は私の胸の中」と、二人で軍艦島に旅をして創りあげた「地球の涙に虹が架かるまで」、ボ・ガンボスのどんとのコーラスとKYONの一発で決まったピアノに30名近いアーティストがただの観客と化して大喝采を送った「島小Rock’n Roll」。「まぶやーまぶやー」では全編ウチナー口の歌詞にZELDAの小嶋さちほが果敢にもチャレンジし幻想的な子守歌に仕上がっている。昌吉との出会いの衝撃で2つのバンドを解散し統合してしまったソウルフラワーユニオンは北海道民謡のソーラン節を「騒乱節」に、高野寛と山口洋(ヒートウエイブ)は プロデュースを担当している。
 アイヌの世界を歌った壮大な叙情詩「森の人よ」に耳を傾ければ、100年前までは広大な自然に包まれ生活していた動物たちの姿と失った自然への痛みと嘆きまでが聞こえてくる。各曲の持つ世界に引きずり込まれてしまいそうな危険なアルバムである。「もう一度、日本の持っているエネルギーというものをまとめて見ようと思った。西洋にはハーモニー、アフリカにはリズムがあるように、日本には優れたメロディーがある。特に沖縄はそう。そのメロディーに帰っていく。世界の東西南北を日本でまとめて「虹の流れ(レインボー・ムーブメント)」をおこしていきたいね。」喜納昌吉

1993
韓国大田万博出演(ワールド)

1993年、大田(てじょん)で開催された万博で、喜納昌吉&チャンプルーズがコンサートを行った。文化開放前の韓国では日本語の歌を歌うことは禁止されていた。が、昌吉は「すべての人の心に花を」を日本語で歌い、拍手喝采を浴びた。

1994/05 (45歳)
中国北京ツアー 5月(ワールド)

 中国全土で大ヒット曲となった「すべての人の心に花を」(中国題「花心」(ふぁーしん))の作者として北京に招聘を受けた。「花」が中国の人々の心を支え、出稼ぎの人々やその帰りを待つ人々にも「いつの日か花を咲かそうよ」というフレーズが勇気を与えたのだ。
 たまたま入った北京のレストランでは、楽団が『花』を演奏しはじめた。メンバーたちも驚いたが、もっと驚いたのは演奏者や、店員そして他の客たちだったに違いない。「花心」の本家本元が突然目の前に現れたのだから。その後は当然のようにセッションが行われ、みんなで『花』を大合唱した。その店を後にするときも、別れを惜しむように多くの人が車まで駆け寄った。楽団の人々は、チャンプルーズの車が見えなくなっても「花」の演奏を続けていた。

1994/05 (45歳)
中国・故宮

五月一日メーデーの日に、外国人アーティストにとっては、規模・名誉ともに最大級の会場である故宮内の労働人民文化宮で公演を行った。はじめは座って耳を傾けていた観客も、演奏曲が進むにつれて体が動き出す。戸惑い恥ずかしそうにしていたお偉方も、中盤には踊りだしてしまった。「花」では会場中大合唱となり、「ハイサイおじさん」ではカーチャーシーを踊り出す人もおり、警備員までもが踊ってしまったという感動的なステージだった。

1994/05/22 (45歳)
GME(奈良,東大寺)ユネスコ主催 5月(ワールド)

 奈良・東大寺において行われたユネスコ主催の、20世紀の音楽遺産記録のためのコンサート「GME ’94あをによし」にボブ・ディラン、ジョニ・ミッチェル、ライ・クーダーら世界の一流アーティストと共演した。しかし、大物のアーティストを集めたコンサートではあったが、今一つ盛り上がりとまとまりにかける、寄せ集めのイベントだと各マスコミから批判を受けた。
「派手な演出と物珍しさが強く感じられ、いまひとつ盛り上がらない。〜中略〜以前から共同作業を持続してきた喜納昌吉とライ・クーダーの舞台が開放感あふれる仕上がりだった。〜中略〜当たり前だが、日常的に自らの音楽を磨いている音楽家だけがこういった舞台にも耐えられるのだ。」「今回の唯一のハイライトは、喜納昌吉だった。」と報じられた。

1994/05 (45歳)
喜納昌吉イスラエルへ「火神」写真 イスラエルへの旅

キリスト、イスラム、ユダヤ教のルーツを訪ねようとかねてから念願だったイスラエルに訪れる。スピルバーク監督の映画「シンドラーのリスト」を見た昌吉は、シンドラーゆかりの地を訪れようとタクシーに乗り行き先を告げた。しかし車がついたところは「シンドラー」ではなく「サンヘドリン」だった。その地はどこかなつかしく、連れられるままその地を見るうちに、昌吉は沖縄に古くからある墓にうりふたつの墓を発見する。沖縄とイスラエルの不思議な共通点を発見した昌吉は、デジャヴ(既視感)ともいえる不思議な心地よさの中で大きく伸びをした。その瞬間を同行した妻・裕子さんが撮影をしたのだが驚いたことにその写真には、昌吉の両手から発せられた光が輪となって昌吉の周囲を取り巻いていた。その他にもイスラエル旅行中の昌吉が手を挙げている写真はすべて昌吉の両手から光が放たれて写っていた。その時の写真がアルバム『火神』のジャケットで使用している不思議な写真である。

1994/06/10 (46歳)
第3回うるま祭り(祭り)

 那覇市・奥武山公園。前年日本を襲った米や農作物の大凶作を自然からの警告と受け止め、五穀豊饒を祈願し、大地自然の恵みに感謝する「産業復活祭」と位置付け開催された。
 沖縄の祖先神であり、五穀をもたらしたアマミキヨ・シネリキヨら神々へ、明国(中国)より甘藷(さつま芋)を持ち帰り大飢饉から人々を救った野國総官、その芋の栽培法を広め、サトウキビの栽培精糖技術を伝播した儀間真常、治水工事を行い農業の復興に貢献した具志頭親方(祭温)ら歴代の沖縄の偉人への感謝の意を表明した。

1994/12/05 (46歳)
CD「火神」発表 (アルバム)

 『火神−ひぬかん−』とは、沖縄で台所などに奉られる火の神様。「火への信仰はどこにも見られます。火は人間の心を顕しています。植物でも、星でも、すべて中心には火があるんです。魂も火がついていないと何もできない。生きとし生けるものすべてに火がついています。この火には、魂のネットワークともいえる、火がついて燃えているもの同士が自然につながっていく性質を持っているんです。その火を一瞬にして起こすことが出来れば新しい流れが生み出せるでしょうね。」
 「滝落し」は沖縄の伝統的な箏曲で、七段まであるうちの二段を喜納昌吉風にダイナミックにアレンジしている。ライブでは必ず演奏する欠かせない曲であるが、曲の持つ世界観の壮大さ故に収録されたことがなかった。アルバムタイトル曲「火神」も同じく、昌吉が10年以上愛し大切にしている曲だ。「火神」はバンド内のチューニングをとる曲でもある。昌吉はステージに上がると妥協を一切許さない。メンバー同士の心のチューニングがずれたとき、昌吉は「火神」を演奏し始める。互いの持てるエネルギーをすべて引き出し限界に挑戦する。そして限界を越えたとき、バンドはひとつになる。チャンプルーズがひとつになってこそ、その音楽を聴いた人々の心もひとつになれる。そのときライブ会場は祝祭の場となりうる。そんな音楽「火神」がはじめて収録されたこのアルバムは、4半世紀を超える喜納昌吉&チャンプルーズの集大成とも言える。

1995
黒潮祈りの巡礼「サバニ・ピース・コネクション」

終戦被爆50年平和祈念イベント黒潮祈りの巡礼「サバニ・ピース・コネクション」を開催。沖縄古来の舟‘サバニ’を、与那国から25の島々を手漕ぎで繋ぎ、各地で歌を歌いエイサーを踊り、琉球弧の人々の平和への想いを預かり、広島・長崎へ“平和のメッセージ”を届けた。

1995/09/23 (47歳)
北京平和音楽祭 天壇公園コンサート

ジュディー・オングのプロデュースによる北京平和音楽祭に参加。この祭りはジュディー・オングの「21世紀へ向けて子供たちに平和な世の中を伝えたい」という強い思いにより実現した。会場となった天壇公園は弥勒菩薩が奉られている聖域で、これまでにイベントに使用されたことはなく、この平和音楽祭のために特別に許可がおり開放されたという。「この場所で開催することにも深い意味があったんです。最初で最後という大切な瞬間に演奏できたということは、なにか神秘性すら感じます。」昌吉もその主旨に賛同し、「すべての人の心に花を」を歌い、未来を担う子どもたちへ平和への想いを託した。

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