喜納昌吉&チャンプルーズOFFICIAL WEB

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喜納昌吉の軌跡

1981
テスト

テスト

1981/09 (33歳)
初の北海道公演

 80年10月、うるま祭りをきっかけに復活した沖縄市の比嘉区青年会のエイサーメンバーとともに、                                                                                                                 自主コンサートを企画し北海道へと渡る。コンサートは大成功をおさめたが、実は本当の昌吉の目的はアイヌの祭典「シャクシャイン祭り」に参加することだった。が、しかし仲介者とアイヌの代表との折り合いがつかず受け入れてもらえずに、祭りではエイサーを披露することもできなかった。昌吉は複雑な思いを抱えながら北海道を後にした。 

 

1982/32 (34歳)
LP「祭」発表

矢野誠のプロデュースにより「祭」を発表する。元来ライブですべてを表現してきた昌吉にとって、レコード制作自体が苦痛で仕方がなかったという。作品が切り刻まれる場に立ち会うことに、自分自身に身が切り刻まれていくのと同じ痛みを感じていたのかも知れない。

1983/02 (34歳)
CD「セレブレーションLIVE」発表

 大阪の御堂会館、東京の九段会館の2カ所でのライブを収録し「ザ・セレブレーションズ・ライブ」として発表した。昌吉はこのアルバムを最後にメジャーレーベルから姿を消した。デビューの衝撃とその後のセンセーショナルな活躍で、マスコミからも注目されながらも、音楽業界から距離を置くことにした。
 日本の音楽業界から姿を消したとはいえ、昌吉の活動は以前に増して精力的になっていった。消費されるための商品としての音楽ではなく、本当に体の中からわき上がる音楽を創るために、より深く深く沖縄民族の文化の源流を探求しはじめた。

1985
久高島・家を借りる

アマミキヨ・シネリキヨという琉球の祖先神が最初に降り立ったといわれ、琉球国造りにちなむ神話や神の国として知られる南部の離島・久高島。古くから宅地以外の土地は島の共有地とされ、村外からの移住はまず不可能といわれる共同体システムが今も残る島だが、昌吉はそこに一軒家を家を借り半年ほど生活をした。

1986/04/05 (37歳)
久高島「ニライカナイ祭り」開催 86年4月

「むらおこし・しまおこし・うるまおこしは久高島から」をテーマに第1回目の「ニライカナイ祭り」を開催。過疎化が進む久高の将来を憂いた島の人々とともに、祭りを起こすことで久高の文化遺産をアピールするとともに島の活性化を図ろうというものだった。

1970/01/01 (38歳)
フィリピンマニラネグロス島支援コンサート

「アジアの叫び」と題する、飢餓に苦しむネグロス島民の救済チャリティーコンサートへの出演依頼を現地の民衆文化運動グループから受けた。打ち続く政変下に文化的アイデンティティーを確立するためのイベントだった。出演者は地元フィリピンのジョイ・アラーヤ他、タイで「花」を歌うカラワンなど。日本からは昌吉のほかに小室等、友部正人、豊田勇造らが参加した。

1987
世界に広がるチャンプルーズソング

『花(すべての人の心に花を)』が東南アジア諸国で多くの人びとに愛唱され、タイでは、なんと八週連続でヒットチャート第一位の座を独占していたという。アメリカでは人気ロック・グループのヘンリー・カイザーがウチナーグチ(沖縄語)でレコーディングした『ハイサイおじさん』(CD)が、米英両国で同時に発売されていた。

1987/09 (39歳)
第2回「うるま祭り」開催

1987年、「平和と自然を地球に」をテーマに9日間に渡って、沖縄が「平和で豊かな島」であったうるまの時代を蘇らせようと、様々な催しを行った。9月23日の秋分の日には、今世紀最後の金環日食の日に、アイヌの長老ら42名と沖縄のユタ(シャーマン)、宮古島からは神人(カミンチュ・シャーマン)を招き、太陽の復活を祈るアイヌの祈り・カムイノミと沖縄の祈りをもとに、南北の民族が出会い直す儀式を執り行った。その日、日本列島はすっぽりと雨雲に包まれ天気予報も80パーセント雨。しかし儀式が始まると、いつしか雲は消えていた。太陽と月が重なって神秘的な金色の日輪が、頭上に輝いた。そして金環食が終わると、太陽は雲の中に消えてしまったという。秋分点を通る金環食が見られたのは572年に北海道で観測されて以来1415年ぶりの出来事であり、アイヌと沖縄の不思議な深い繋がりを感じさせられた。

1988/02/11 (39歳)
原発サラバ記念日全国の集い(伊方原発)参加 

チェルノブイリ原発事故からほんの2年後、事故の原因であった出力調整実験が、伊方原発で多くの反対派の意見を無視して行われた。日本中から原発はいらないという人々が伊方に集まった。反対派と機動隊員の一触即発のムードに危機感を感じた昌吉は、トラックの上に登ってギターを弾きはじめた。すると、機動隊もいつの間にか足でリズムを刻んでいたという。

1988/04/24 (39歳)
原発止めよう1万人行動(日比谷)

伊方の集会の大成功を受けて日比谷でも反原発行動が行われた。1万人の目標が実際の動員は2万人集まったと言われている。「情報は東京から地方へ。でもリアリティは地方から東京へ。しかし中央に行く間にリアリティは薄れて、ニセモノのようになってしまう。リアリティの点では東京は流行に乗り遅れている。」

1988/08/08 (40歳)
いのちの祭り(八ヶ岳) (祭り)

今でも語り継がれるニューエイジムーブメントの大きな山といえるイベント「いのちの祭り」も実は昌吉の提唱によるものである。昌吉はかねてから八八年をとても重要な年と位置付け、七〇年代後半から八八年八月八日に祭りを起こすことを目標に、保坂氏や友人たちとともに早くから動いていた。その昌吉の念願の祭りの会場が長野県八ケ岳に決定し、祭りのタイトルも「八ケ岳、いのちの祭り」に決まった。八八年八月八日に八ケ岳の八も加わり五つの八の祭りになったのだ。「NO NUKES ONE LOVE」を掲げて実行委員会が結成され「自然と生命の尊さを考える」という主題のもとに八月一日から八日間にわたって行なわれた。

1988/08/25 (40歳)
「泣きなさい笑いなさい」出版

保坂展人氏が編集・制作した昌吉の語りおろし本。音楽・芸能・政治・宗教・哲学、はては大予言まで飛び出す、オールラウンドの昌吉ならではの中身を、昌吉との長年のつきあいでその想いを熟知した保坂氏とのコンビネーションでわかりやすく、かつ伝わりやすくまとめられた名著。

1988
沖縄水産高校甲子園ベスト4進出

 高校野球では20年ぶりに沖縄の代表がベスト4入りし甲子園のマウンドに立った。応援歌には「ハイサイおじさん」が使用され、スタンドの応援団のみならず、多くの県民がともに口ずさみ、ナインのがんばりを見つめていた。

 

1988/10/19 (40歳)
弥勒世果報祭り 

 父・喜納昌永のリサイタル「喜納昌永弥勒世果報祭り」を那覇市、沖縄市、名護市、石垣市、与那国島で開催。声帯を痛め声が出なくなり14年間歌手生活を断念していた昌永さんの記念すべき復帰公演。
昌永さんは歌手生活を断念して、復帰は無理かと思われていたが、昌吉は父を励ましたいとそう想ったのだろうか「声が出なくてもいい。一緒に三線を弾いて欲しい」と父を説得した。声のでないまま当日を迎えたが、当日の朝会場に入ったとたん昌永さんの声が出た。その夜、昌永さんは民謡『汗水節』『カチャーシあしび』などを歌って喝采を浴びた。父にもう一度ステージに立ってもらいたい。そんな昌吉の強い想いと行動が、父の病気を治癒してしまったのだろうか。不死鳥の如く、喜納昌永が復活した奇跡のリサイタルは毎回立ち見が出る大盛況で、多くの喜納昌永ファンが涙を流した。

1989
インド公演

昌吉にとっては忘れ難いプーナの地、初訪問からはすでに九年の歳月が過ぎていた。会場のオショウコミューンには数千人の聴衆が詰めかけ、ステージは喜納昌永さんの三線の早弾きによるカチャシー『ハンタ原』で開幕した。聴衆は1曲目から手を打ち足を鳴らして踊り始めていた。これを受けて昌吉のオリジナル曲の演奏が続く。それからはフィナーレまで、会場は全員が総立ちとなって踊りっぱなしだった。現地紙は1面トップでこの模様を報じ「見事なまでに東洋と西洋を融合させた」と絶賛した。

1989/09/10 (41歳)
ガネーシャフェスティバル出演

コミューンでの大盛況を知ったインド観光協会から、西インド最大のヒンズー教の象神の祭り「ガネーシャ・フェスティバル」への出演依頼が舞い込んだ。会場は由緒あるネール記念競技場で、聴衆のなかには作家デイリップ・チトラ、ミュージシャンのウスマン、カーンら著名人も多数いたようだった。1万人を越える観衆は熱狂し、全員が総立ちで踊るというインドではなかなか起こり得ない情況に、地元警察があわてて演奏をストップさせてしまうというハプニングも起こる。しかしそれがまた話題を呼び翌朝、このニュースを一面トップに扱った新聞も含めて、約20紙が大きく報じた。そのほか、全国ネットのテレビや各種の雑誌がいっせいに特集した。

1990/08/08 (42歳)
「ニライカナイパラダイス」発売(90年8月8日)

沖縄の瀬底島に32トラック・デジタル・レコーダーを運び込み、総勢25人でログハウスのペンションに合宿して沖縄初のデジタルレコーディングを行った。レコーディングがこれほど大掛かりになったのは、沖縄本来のものを見つめ直したい、沖縄でレコーディングをしたいという昌吉の気持ちを大切にしたからだった。『祭』以降、本当に納得が出来る環境が出来るまではアルバムは発表しないと心に決めた昌吉がようやくメジャーシーンに復帰を果たした衝撃の一枚である。昌吉の7年という長い旅の間に培われた想いやエネルギーが小さな島のスタジオの中を満たし、アルバムに収められた。

1990/10/31 (42歳)
ネルソンマンデラ東京歓迎集会(90年10月)

アパルトヘイト(人種隔離)政策に反対するための支援を訴え、出所後初来日中の黒人解放運動者ネルソン・マンデラを送る「さよなら東京集会」(日比谷野外公会堂)に、渡辺貞夫、南正人らとともに出演。昌吉がステージから「私は沖縄の独立運動を起こそうと思っているのでよろしく」と発言すると会場は一瞬静まり返ったが、「どこからの独立かといえば国境線からです。地球は一つであるべきで、国境線はいらない。」と続けて、大喝采を浴びた。

1990/12/31 (42歳)
第2回ニライカナイ祭り(90年12月31日)(祭り)

久高島に代々伝わり、島の神人(ユタ、ノロ)たちによって催されてきた12年に一度の聖なる祭り『イザイホー』が、多くの人達の努力にもかかわらず過疎化のために中止になってしまうということを受け、急遽喜納昌吉が呼びかけ開かれた。久高島を望む知念村の広場で、本来イザイホーが開催される午の年の午の日の旧暦11月15日がちょうど90年の大晦日にあたっていたために、カウントダウンにあわせて野外コンサートが開催した。

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