喜納昌吉&チャンプルーズOFFICIAL WEB

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喜納昌吉の軌跡

1980/12 (32歳)
インドヘ

 その年、インドを訪れた昌吉は、友人に連れられてハリークリシュナやサイババにも会ったが、講話にもそれほどの魅力は感じなかった。が、和尚(バグワンーシュリーラジニーシ)に会ったときは違った。「この人はただ者じゃない」と瞬間に心うたれたという。
 「革命を語れる人は多いけれど、魂のエネルギーの問題を語れる人ははいなかった。和尚は宗教や経典ではなく、エネルギーそのものだった」
 内面を磨きつつも、社会の抱える問題に対しても積極的に関わっていくスタンスや、カウンター・抵抗としての行動ではなく、抱擁と変容の世界を感じた。その和合の方法は「祭り」であると実感した昌吉は、まずは沖縄でやり残したこと、沖縄で祭りを開催しようと帰沖する決心をした。

1976
喜納昌吉&チャンプルーズ結成

きじ

1976/41 (28歳)
「ハイサイおじさん」大ヒット

父とともに録音した「ハイサイおじさん」がシングルレコードとして発売されると同時に爆発的に売れはじめ、沖縄だけではなく本土にも飛び火して、いろんな人が歌いはじめた。『那覇市内のレコード店によると「売れに売れて。全島にも在庫がないんじゃないですか。注文してもこないくらい。配給制になっているんです」というからすごい。(略)コミカルな歌詞と親しみやすい曲が人気を集め、子供から老人まで鑑賞用だけでなく踊り用としても買っていくらしい。(略)
 この歌、本土でもよく知られている。とくに大阪朝日放送のおはようパーソナリティーで人気絶頂のアナウンサー・中村鋭一さんもこのレコードを出して“競作”、ハイサイおじさんの人気は高まるばかり。(略)』 琉球新報紙 1976年4月7日付

 

1976
喜納昌吉&チャンプルーズ再結成、ライブ活動を開始

出所後再編されたチャンプルーズのメンバー編成は、喜納昌吉がヴォーカルとギター、五男の昌弘がエレキベース、長間孝雄が三線、当山安一がドラム、それに昌吉の妻の友子と四女の幸子、末妹の順子が参加していた。ミカドでのライブも毎晩行われ、客たちは歌い踊り、ミカドの中だけが変わらない昌吉のスペースだった。

1977/11/15 (29歳)
LP「喜納昌吉&チャンプルーズ」発表

 1977年、喜納昌吉&チャンプルーズは本土デビューを果たす。ホームグランドである民謡クラブ「ミカド」に沖縄では初の24chマルチレコーダーを持ち込んで収録が行われた。このアルバムの巻き起こした反響は尋常ではなかった。本土の芸能ジャーナリズムは発売前から騒然とし、競うように喜納昌吉&チャンプルーズの音楽をほめ、書き立てた。
 東京中日スポーツ紙上で発売二カ月前(9月19日付)に音楽評論家の富沢一生が「(喜納は)形式化して死んだ沖縄民謡を生き返らせたい、というのが口グセになっている。彼の歌のよさは、強さがあるということ。それがどこからくるのかといえば、知性だけにたよる形ではないからだ」と激賞している。

1977/12/10 (29歳)
中野サンプラザ コンサート

 喜納昌吉&チャンプルーズの本土上陸コンサートは、音楽業界では今でも神話として語り継がれているという。中野サンプラザの収容人数は約2000人だが、売れた券はたったの「16枚」。しかし当日、雨が降るにも関わらずチケット売り場には熱狂的なファンが長蛇の列をなし、立見客まで出た。演奏も盛り上がり、フィナーレに近づくにつれて興奮が高まり、聴衆は立ち上がり、歌い踊り舞台にかけ上がった。最後には大きな渦と化しカチャーシー(沖縄特有の踊り)の乱舞が始まった。喜納昌吉はサンプラザのコンサートをこう語る。
「体中に『マイナス』のエネルギーの傷を受け一度死にそうになった。あそこに集まった人は、挫折したりドロップアウトした人達だったように思います。60年・70年安保が挫折した時代で、ヒッピーや革命家、カウンター・カルチャーの人達が、方向性を失った時期だった。その時彼らの思いが委託されたような感じがしました。」その後の昌吉はその言葉の通り、差別問題、エコロジー問題、反原発問題、ヒッピ−ムーブメント、人権問題、日雇い労働者の問題、そして先住民族のことなど様々な人間の本質的問題に参加していく。このコンサートの成功は、昌吉の生き方を決定づけたものになった。

1977/12 (29歳)
保坂展人との出会い

「元気印」という流行語を創った人物・保坂展人(現衆議院議員)との出会いも昌吉の大きな転機である。保坂氏は16年にも渡る「内申書裁判」中、琉球弧の住民運動に連帯しようと沖縄に訪れ「島小」を耳にする。強い衝動に駆られ保坂氏は、昌吉の家を訪ねた。二人は初対面であるにも関わらず、夜を徹して語り合い、その後1週間語り続けたという。互いに影響を与えあい刺激しあう仲となった二人は、新しい時代を築こうと日本全国をまわり、各地で自主コンサートを行った。

1978/07 (30歳)
7.30

 沖縄が本土復帰に伴い、33年間もの間右側通行だった車線が、一晩で左側通行へと切り替わった。ナナサンマル(7.30)と呼ばれる交通変更は、世界でもスウェーデンに次いで二例目で、費用は60億円といわれる。7月30日「ナナサンマル交通変更」当日沖縄では、バスが崖から転落したりタクシーが大事故を起こしたりと、プロのドライバーまでが事故を起こした。沖縄が交通事故の地獄と化したその日、昌吉は東京日比谷野音でコンサートを行っていた。ステージの後半、彼は客席へと語りかけた。
「今日はね、ここでみんなが楽しんでいるときに、実は沖縄で死んでいる人がいるんです。東京の人が『ナナサンマル』に対して何ができるかいうと、一言『ナナサンマルはおかしいんじゃないか』と言えばいい。思いやりの文化をつくろうよ。」客席からは拍手と歓声の渦の中から“わたしたちは七.三〇交通区分変更に反対です”という横断幕が浮かび上がった。

 

1979
「魂を起こす旅」

保坂氏とともに、沖縄本島・宮古島・伊良部島などをまわる旅を行った。その模様は「喜納昌吉 特集魂を起こす旅」として、月刊紙「宝島」別冊にまとめられた。100ページにもわたったこの企画は、一人のアーティストを取り上げた特集としては「宝島」の歴史最大のボリュームであった。

2023
山内盛彬氏との出会い

昌吉は沖縄文化を探求する中で、古典湛水流を復興させた盛彬の存在を知る。山内盛彬は口承の琉球音曲をはじめて五線譜に採譜し、オモロを始め多くの琉球古謡を採集し伝承記録し、世界各国を巡って琉球音楽を実演しながら紹介した人物である。また「屋嘉節」の作者でもある。山内盛彬が存命していることを知った昌吉は探し回りようやく探しあてた時、山内翁は小さな養老院の粗末なベッドで、ほとんど寝たきりに近い状態だった。翁には昌吉が音楽家であることも、訪ねていくことも知らせてはいなかったが、昌吉の顔を見るなり涙声で「おお、よく来てくれた。わたしはあなたを待っていた」とベッド上に身を起こし三線を手にすると、低声で湛水流作田節(ちくてんぶし)を口ずさみ始めた。山内翁が亡くなるまで約2年間、体をマッサージしたり、お茶を飲ませたり、介抱をしながら教えを受けた。

1980/11/16 (32歳)
第一回うるま祭り開催

沖縄の文化・産業・精神性の大切さを訴え「うるま祭り」を開催。「うるま」とは琉球以前の古称で、国境を持たず平和に自由に自然とともに暮らしていた時代を指している。「埋没した沖縄の文化を掘り起こし、祖先の残した文化遺産をどう継承していくか」について考えた祭り。地域の青年会、文化人、保革両派の政治家、宗教者、一般の人々も参加し、各人の立場で先祖の残した文化遺産について語り合うシンポジウム、県産品の即売、エイサー、古典、沖縄芝居、歌と舞い、童遊び、映画など多彩な催しが行われた。参加者も観客も、いまさらのように沖縄文化のすばらしさを再認識した。

1980/12 (32歳)
インドへ

インドを訪れた昌吉は、友人に連れられてハリ・クリシュナやサイババにも会ったが、講話にもそれほどの魅力は感じなかった。が、和尚(バグワン・シュリ・ラジニーシ)に会ったときは違った。「この人はただ者じゃない」と瞬間に心打たれたという。「革命を語れる人は多いけれど、魂のエネルギーの問題を語れる人ははいなかった。和尚は宗教や経典ではなく、エネルギーそのものだった。」内面を磨きつつも社会の抱える問題に対しても積極的に関わっていくスタンスや、カウンター・抵抗としての行動ではなく、抱擁と変容の世界を感じた。その和合の方法は「祭り」であると実感した昌吉は、まずは沖縄でやり残したこと、沖縄で祭りを開催しようと帰沖する決心をした。

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