喜納昌吉&チャンプルーズOFFICIAL WEB

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喜納昌吉の軌跡

1972/01/24 (23歳)
麻薬不法所持で逮捕 獄中、書物を通じ問題意識に目覚める

刑務所暮らしと問題意識の目覚め  退廃したコザの象徴BC・ゲート通りの友人からヘロインを預かり、麻薬不法所持の容疑で逮捕される。初犯にもかかわらず、求刑5年に対、実刑1年半という厳しい判決を言い渡された。復帰を直前に控えた沖縄の麻薬撲滅の徹底化の最初に上がった槍玉として、昌吉は沖縄県の「検事控訴第一号」となる。1972年5月15日、故郷・沖縄の日本復帰の日を楚辺刑務所(那覇市)で留置されたまま迎えた。  コザの夜の帝王の生活から一転して、刑務所の中の清貧な暮らしの中で、昌吉はいろいろなことを考えた。この一件を自分への懲罰と受け止め、自分自身と向かい合うことを学びはじめた。ゆったりと流れる時間の中で、昌吉はさまざまな本を読み始める。社会を勉強しようと六法全書を読み、その後はマルクス、サムウェルソン、ソクラテス、プラトン、ニーチェ、ヘーゲルに始まり、フロイト、ライヒ、マズロー。さらにはキリスト、ブッタなど、ありとあらゆる本を読破した。中でも昌吉の心を引き付けたのは沖縄の民権運動家、謝花昇だった。

1972/05/15 (23歳)
(沖縄の日本復帰)

1973/07 (25歳)
沖縄刑務所出所

400日ぶりの世間。昌吉は不思議な違和感を感じる。1年半余の間に「琉球」は「沖縄県」へ通貨は「ドル」から「円」へ、「アメリカ世」は「ヤマト世」へと変わった。が変化は、表面的なものだけではなく、風土そのもの人情そのものまでに及んでいた。

1973
昌吉再生

 出所後、変わり果てた沖縄を目の当たりにし昌吉は悩み続けた。アイデンティティーを根底から揺るがされるように感じたのかもしれない。これからどのように生きていけばいいのかと、落ち込み考え続けた。
 そんな折り妻の故郷、与那国島を訪れた。与那国島には、沖縄本島が失いかけていた美しい自然、人々の心が、昔のままに残っていた。日本の沖縄の最西端の地「東崎」に立ったとき、本当に大切なものを自然に教えられ、昌吉は信じる道を歩こうと決意した。

1973
島小(しまーぐわー)  陶芸家・名護宏明との出会い  

<p>島小(しまーぐわー)
 「昌吉、沖縄には受け継ぐべき“島小”(しまぐぁ)ってやつがある。これを忘れたら沖縄も終わりだっ」沖縄在来の家畜の保護運動を行う陶芸家の名護宏明との最初の会話がこれであった。「島小」とは、本来「純粋なもの」「地元産」といった意味を持つ。しかし中国、薩摩、大和、アメリカと続く侵略の中で「沖縄」「島小」であることが卑下されるべきもののように変わって行き「島小」精神を沖縄の人々は忘れかけていた。名護氏より「島小」というキーワードを与えられたときに、昌吉の中のもやもやは吹き飛び、沖縄土着の「島小」パワーが熔岩流のように心の底から沸き上がり、昌吉の魂を突き起こした。名曲「島小」はそのエネルギーのままに生まれでた。
</p>

1973
安里清信との出会い 金武湾CTS反対運動に参加

 昌吉にとって「生き方の指針になった人」が「金武湾を守る会」の安里清信氏である。安里さんは金武湾のCTS(石油備蓄基地)建設に、環境を破壊してはいけないと反対運動を展開した。歌や踊りを取り入れた人々に密着した文化運動を通じて人の心の重要性を訴えた、沖縄の住民運動史の中でもキーポイントとなる運動である。昌吉は安里さんとの出会いで、音楽を通じて運動に参加しはじめた。後にインタビューで昌吉はこう答えている。
「あのような争いの場で、私の歌が力になったかどうか分からない。ただ、どう生きるべきかを模索しているときに、安里清信さんのような人に出会ったことは幸運だった。まれに見る純粋な心の持ち主でした。“母なる海”と言っておられた安里さんはどんな思いでなくなられたか。沖縄の人間は苦い思いを何度も味わされてきたんだから、後に残った物は遺志を継いで行かなければならない。」

1970
アイデンティティの確立

 悩みに悩んだこの時期は、その後の昌吉の生き方を見ていく上での大きなポイントとなっている。沖縄、大和、アメリカ、自分自身、社会。刑務所の中で読んだあらゆる本、その登場人物のさまざまな考え方。謝花昇をはじめとする、信じた道をひたすら歩き続けた人々のすさまじいほどの生き方。コザ時代のカオス、刑務所の中で発見した普遍的テーマ、そして沖縄本来のアイデンティティ、それらがこの時期に昌吉の中でひとつに結ばれ、その後の昌吉を導き続ける喜納昌吉アイデンティティが確立された。喜納昌吉20代半ばの頃のことである。

1973/07 (25歳)
沖縄刑務所出所

400日ぶりの世間。昌吉は不思議な違和感を感じる。1年半余の間に「琉球」は「沖縄県」へ通貨は「ドル」から「円」へ、「アメリカ世」は「ヤマト世」へと変わった。が変化は、表面的なものだけではなく、風土そのもの人情そのものまでに及んでいた。

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