喜納昌吉&チャンプルーズOFFICIAL WEB

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喜納昌吉の軌跡

1948/06/10 (0歳)
喜納昌永、千代の四男として米軍占頷下のコザに誕生

父、昌永に抱かれて
父、昌永に抱かれて

一九四八年六月一〇日コザ(沖縄市)に、喜納昌永と千代の間に生まれる。太平洋戦争終結から三年後、傷跡が生々しく残る沖縄中が貧困にあえいでいた時代だった。二才の頃アイスキャンデーからの感染症がきっかけで生死をさまようほどの病気にもかかった。昌吉の最初の記憶は、一心不乱に三線を弾き歌う父の姿だという。母の慈愛と父の音楽のエクスタシーに包まれた幼少時代は、昌吉の幸福感の原点といえる。

1955/04 (6歳)
島袋小学校入学

小学校から入学式の通知がきたが、着ていく服も履いていく靴もなかったため学校には行かなかった。先生から登校するようにと説得され、遅れて秋から小学校に通いはじめたが、教科書を買うお金がなく教科書を持たずに学校に通った。その後は近所の一つ上の子供の家で教科書をもらったが、五年生と中学一年の時には教科書をもらいそびれ教科書なしで通った。学校に通うまではウチナーグチ(沖縄語)しか知らず日本語が理解できなかった。動物の絵を見て名前を書き込む日本語のテストで、ウチナーグチで答えを書いて教師たちを困惑させた。

1961/04 (12歳)
島袋中学校入学

小学生時代からはじめた新聞配達を毎日欠かさず続け、稼いだお金を両親に渡し、喜んだ顔を見るのが一番の幸せだったという中学生時代。在学中に校名が桃山、さらに山内に変更し、校舎も移転する。高校が存在することも知らず、毎日野山を走り回って遊んでいた。

1961
ハイサイおじさん作曲

この頃に見よう見まねで覚えた三線を無意識に弾いているうちに不意にメロディが唇をついて流れてきた。ハミングを繰り返し自然発生的にメロディと歌詞が生まれでたのが、喜納昌吉の音楽家としての出発点「ハイサイおじさん」であった。今まで高校時代といわれていたハイサイおじさんの作曲は、実は13才の時、中学時代に行われている。

1964/04 (15歳)
琉球政府立普天間高校入学

高校時代
高校時代

「好きな女の子と同じ学校に行きたい」ただそれだけの想いではじめて勉強をし、県内でも進学校として知られる普天間高校に入学した。入学後は勉強の面白さに目覚めて、高校二年のときには学年トップの成績を修めた。

1964/10/24 (16歳)
東京オリンピック閉会式


東京オリンピック閉会式

 学校帰りに立ち寄った定食屋で流れていた「東京オリンピック」の閉会式。世界各国の代表選手が人種も民族も国も越えて、抱きあい涙を流していた。一六才の昌吉の心の中に感動が沸き起こった。「泣きなさい 笑いなさい」世界で歌い継がれる「花~すべての人の心に花を~」が、昌吉の心の中に芽吹いた瞬間だった。

1967/04 (18歳)
国際大学(現沖縄国際大学)入学 チャンプルーズ結成

入学はしたものの学園闘争の真っ最中で学内は混乱し、落ちついて授業を受けるどころではなかった。秋の学園祭で演奏しようと、友人や兄弟だちとチャンプルーズを結成。チャンプルーズというバンド名は、メンバーが兄弟友人のミックスであることと、民謡やロヅクやフォークなどさまざまな世代に受け入れられるようなごっちやま
ぜの魅力をめざしたからである。初ステージではやはり「ハイサイおじさん」が熱狂的に受け入れられた。

1967
コザ時代

 ベトナム戦争の最中、前線に行けば生きて帰れる保証のない米兵はその恐怖に最後の晩餐とばかり歓楽街コザで夜を謳歌した。
コザは米兵のばらまくドラッグにより想像を絶する混沌と退廃の街と化し、街の荒廃と軌跡を合わせるかのように若者たちもバイオレンスやデカダンスに陥った。昌吉も酒、ギャンブル、女にのめり込んでいく。

1967
「ミカド」経営

ミカドのステージ
ミカドのステージ

 「ハイサイおじさん」は民衆の間ではヒッ卜したものの、ギターを持ち込むのは民謡の堕落につながると、民謡界から痛烈な批判を受け続けた。民謡界に音楽が受け入れられない不満から、それならば自由に音楽活動ができる拠点を持とうと、民謡酒場「ミカド」を経営しはじめる(一九六七年)。米軍支配下の今にも爆発しそうな沖縄住民の不満、戦場への恐怖と恍惚を抱える米兵、あらゆる感情がどろどろと渦巻くコザの中で、ミカドの中だけは、沖縄人、大和
人、米兵が、日頃の壁を越えて入り乱れて歌い踊り狂っていた。昌吉の音楽が人々を熱狂させ、踊りの中にひとつになるという空間を生み出していた。一〇〇〇ドルで一軒家が建つといわれていた当時、売上は連日一〇〇〇ドル~一五〇〇ドルにも達した。

 

ミカドの前で

ミカドの前で

1969
「ハイサイおじさん」録音 父昌永のアルバムに収録

 ’69年、父・喜納昌永氏のレコード収録に、記念として参加させてもらい「ハイサイおじさん」を収録した。父としても昌吉を世に出したいという想いがあってのことであった。発売されると「ハイサイおじさん」は予想以上の反響で迎えられた。

1969
安慶名会館で初ステージ

 同年、具志川市安慶名会館で行われた父のテレビ出演に共演する形で、喜納昌吉&チャンプルーズは初舞台を踏んだ。約四〇〇人の観衆を前にはじめて「ハイサイおじさん」を歌いあげた。

1970/12/20 (22歳)
コザ暴動


コザ暴動

コザ暴動

 1970年12月20日深夜。コザ市内で起こった米兵によるウチナーンチュ(沖縄人)のひき逃げ事故を引き金に、頻発する事故や事件、基地への怒り、復帰への不安が一気に煬発した。群衆数は5000人余、米人学校三校に放火、炎上車は81台、双方で80余人が負傷した。これはどの爆発にもかかわらず死者は出ず、米兵でも差別を受ける黒人兵へは被害が及ばないようにするなど不思議な秩序が生まれていた。
コザ暴動にはリーダーや、群衆を引っ張る人間は存在しなかった。誰かに動かされるのではなく一人ひとりが立ちあがるときの、爆発力の強さを身をもって昌吉は感じた。不自然で退廃した権力を打ち負かすことができるのは、他人の痛みを自分の痛みとして共有できる心の優しさ、弱者の悲しみを自分の悲しみとして実感し得る心の豊かさ、そして心の底からの想いでしかあり得ないということをコザ暴動で学んだ。

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